映画「聲の形」感想 ― 声にならない聲(ネタバレあり)

映画「聲の形」を舞台挨拶のライブビューイング回で観てきました。
心がざわつき、揺さぶられ、
「自分は知らないうちに誰かを傷つけたりしているんじゃないか」
「自分にも何か明日から出来ることがあるんじゃないだろうか」
そんなことを自然と思い抱かせる映画でした。

自分は原作の読み切り回を読んだだけで単行本は未読です。
なので単行本を読破しているとまた違う感想を抱くかもしれません。
※9月29日追記 原作読みました

 

お話としての視点はあくまでも将也の物語。
特に気にせずスルーしてしまいがちだが、ここ凄く大事だと思う。
勿論、硝子も核となるとても重要なキャラではあるが、それは将也や妹である結絃などから見た硝子としてしか描かれていない。
硝子が何を思い、どんなことを感じながら日々過ごしているのか、将也たちと同じ情報量で推し量ることしか出来ない。
こちらが硝子の気持ちを理解しようとしなければ分からない。
硝子が伝えようとしなければ伝わらない。

硝子が手話で話している一部シーンで、何を言っているかよく分からない箇所もあった。
「字幕つけたらいいのにな」なんてよく考えもせず思ったけれどあとで気付いた。
もしリアルに硝子が目の前に居たとして、何を言ってるか都合よく補足してくれる字幕なんてものは見えたりしない。

 

その硝子役の早見沙織さんの演技に終始鳥肌立ちっぱなし。
言葉を言いたいのに上手く言えない、想いを伝えないのに伝わらない。
そのもどかしさ(足バタバタさせてるとことか)が凄く伝わってきて、やるせない気持ちでいっぱいだった。

将也役の入野自由さんも石田将也という一人の人間が確かにそこにいるという感じ。
言葉で表現するのは難しいのですが、過剰過ぎる演技ではなくすっと感情移入出来る絶妙な演技をされていたと思う。

 

劇伴もかなり特殊。
ピアノは鍵盤のノイズやハンマーが弦を叩く音まで聞こえる。
クリアではなく明らかにこもった音。
アンビエント電子音楽も耳からではなく体内に直接響いてくる感じ。
もしかして耳が不自由な人は日常の何気ない音もノイズ混じりに聞こえていたり、音を「感じて」いる世界に生きているんだろうか。

 

小学校時代のシーン。
将也も悪意があって硝子をいじめていたわけじゃないんですよね。
いい暇つぶしになる面白いおもちゃを見つけた感覚。
子供ならではの純粋な、時には残酷にも感じる遊び心。
硝子を可哀想なヒロインとしてではなく、純然たるエピソードとして淡々と描いている。
だからこそ、観ていて辛かった。
仮に子供のときの自分があの場に居たとしてもどうすればいいのか分からない。

 

将也と硝子以外のキャラでは植野と川井が印象的。
植野は硝子に対して遠慮がない。
凄くストレート。
耳が不自由な硝子に対して一歩引くとか遠慮するような素振りをみせない。
将也が気にかける相手が硝子じゃなかったとしても、きっと同じような態度を取るんだと思う。
正直かっこいいと思った。

川井は植野とはまた違ったタイプの素直な人で。
計算高い人にも見えるけど自分の行動に悪意がない。
舞台挨拶で山田尚子監督が述べていましたが「凄く純粋でシスターみたいな人」というのは言い得て妙だなと。

小学校時代の将也なんかもそうですが、悪意からの行動ではない残酷さって凄く鋭利。
自分でも気づかないうちに相手に刺さっていたりする。
でも二人とも自分の気持ちに素直で嘘をついていない。
自分の声をちゃんと相手に伝えている。
けれど、本音をぶつけることって、時には相手が傷ついてしまうこともある。
難しいね。

  

全体的に派手な演出は控えめ。
でもだからこそ花火のシーンなどはぐっと引き込まれるものがあった。
耳が聞こえなくても振動によって音は伝わる。
形の無い音を伝える手段は確実にある。

口で発するコミュニケーションを取ることが出来てしまうと、気恥ずかしかったり本音を言うことに遠慮してしまったり。
そもそも相手の顔を見て喋っていなかったり。
そういう言葉って本当の意味で相手に伝わっているのだろうか。
声を、想いを伝えることって、耳が聞こえるかどうかは関係あるのだろうか。

 

声って言葉であり情報であり音である。
その形は普段目に見えるものではない。
想いを言葉に変換せず、直接そのまま相手に伝えられたらどんなに楽か。
でも、伝えたい想い、叫び。
声にならない、心の『聲』。
それを頑張って、勇気出して、耳が聞こえなくても、たとえ朧気でも相手に見える形にして初めて伝わる想い、気付く気持ちってあるんだなと。

 

来場者特典の小冊子、表紙の絵も素敵ですが裏表紙を広げるとそれ以上に素敵。
裏表紙の存在にしばらくしてから気づいてうるっときてしまった。
観た後ならきっと伝わりますよね。

 

今まで下を向き動物の死骸の写真ばかり撮っていた結絃が空を見上げ飛ぶ鳥を、そして前を向き将也と硝子を撮っている姿。

 

 

[以下9月29日追記]

原作も読了したのでちょっとだけ。
映画は映画で丁寧に描いていると感じたが、原作をきちんと読むと描写不足かなと思う点もいくつかあった。
全7巻の単行本を2時間に纏めていたのでそこはある程度しょうがない。
具体的には、出番が殆ど無かった真柴の掘り下げや、結絃が動物の死骸の写真ばかり撮っている理由、硝子がいつも穏やかな笑顔のわけ、硝子母の心情など。

硝子母が硝子に対してどんな思いで過ごしてきたのか。
硝子の家庭がシングルマザーの理由はなかなかセンシティブ(ぶっちゃけると胸くそ悪い)な話なので、映画内で描くかどうか色々話し合いがあったのかもしれない。

他の登場人物もそれぞれの心情、葛藤が描かれていた。
だが映画は『将也の物語』として構築し直しているので、将也が知り得ない神の視点の内容は極力カットされたんだと思っている。
知っていればもっと理解度が深まったのは確か。
でも「気持ちを相手に伝えることの難しさ」を描いた映画で、「実はこんなこと思っていたんですよ」とバラしてしまうのは興ざめしてしまう可能性もある。
映画を見て気になった人が原作を読んで補完する流れがいいのかも。

 

最後に本編や原作とは関係ないんですが、テレビで紹介されたり流れているCMを見て。
上でも言いましたがこの作品が描こうとした一番のテーマは「気持ちを相手に伝えることの難しさ」だと自分は感じた。
そのテーマを描く上で、いじめや聴覚障害、将也と硝子の淡い恋愛が要素の1つとして選ばれた気がする。
だがaikoさんの歌う主題歌のタイトルが『恋をしたのは』であることもあってか、やたら「耳が不自由な女の子の感動青春恋愛模様!」みたいなある種ミスリードを誘う内容で宣伝されているという印象が強い。
話の主軸はそこではないし、硝子が健気に頑張るお涙頂戴物語でもない。
でもそこだけ切り取られて伝わるせいで映画を見てもいない人からの「障がい者を売り物にした感動ポルノだ!」みたいなよく分からない反応を多く目にする。
批判するなら最低限見てからにして欲しいとは思うが、宣伝の仕方にも問題あるんじゃないかなぁ。
テレビ局側が勝手に作った内容もあるんだろうけれど。
作品の内容やメッセージ性が痛くて複雑なこともあり、ネタバレを避けつつ上手に宣伝するのが難しいのかもしれない。